昭和44年07月02日 朝の御理解



 御神訓 一 信心の心得
 「生きたくば、神徳を積みて長生きをせよ。」
 「わが心でわが身を救い助けよ。」

 私のこれは失敗談ですけれども、昨夜御月次祭を頂き終わりまして、それからお茶を頂いたりなんか色々して、もう12時近くでございましたでしょうか、久富繁雄さんに手伝うて貰ってから、お初穂の整理をさせて頂きました。まぁお初穂の整理をさせて頂きながら、ここで繁雄さんと二人お話しをするんです。本当におかげを頂いておかなければ、本当のおかげは神様が下さらん。いわば本当に信心をさせて貰うて、おかげを頂いておかんと神様が本当のおかげは下さらんですばいと言うてからお話しをするのですよ。
 本当に少ぅしばかり少ぅしばかりでの話ですけれども、本当に勿体無い様なこうした、けども神様の目から御覧になりゃ、少ぅしばかりのおかげに違いありませんよね。もう私としてはもうこんなに勿体無い様なおかげを頂いておる。どうもさっきからそのうお祭りが済んでから、喉がもう渇きますもんですからお水はお水でもう大きな瓶一本飲んでしまって、そうもうそれでもいかんから、コカコーラーがあったからコカコーラーのあのう大きいのを、あのうのがありましょうが、あれを又一本また頂いていまう。
 それでもまだ足らんから、こんどはかき氷をかかせてからかき氷を頂いて、それでもやれやれこれで済んだと思よったら、いつか先生が言いよんなさった饅頭の美味しかっば、いうちからわざわざ中村さんが持ってきとんなさるですけんちゅうて持って来ましたもん。こりゃまた中村さんに対してでん食べにゃ済まんと思うてから、そしたらそれをまた三つも頂いとりますもん。もうここへ来てからお初穂の整理をする時にゃ、もうなんかゲップのゲップちゅうかなんかこう、胸の焼ける様なゲップが出ましてからね。
 はぁ本当にこれが例えば本当に、まぁ食生活なら食生活の上にでも、それこそ計り御飯でもしなければならないといったような時には、もう絶対この食べ過ぎなんかありゃしなかったろうけれども、それこそ食べ物飲み物が豊富であると、ついついそれに手が出てね、頂き過ぎてからとてもやっぱりこういうことだから、神様が本当のおかげを下さらんとですよ、久富さんと言うて話したんです。私共がおかげを下さいおかげを下さいと言うて、そんならおかげを下さるとですね。
 それをね頂かんでよいものを頂いたり、手を出してはならないところまで手を出したりしてです、そして自分がげっぷげっぷ言うておる。自分で苦しんでおる。どうも寝る迄とにかく又夕べう胃を随分擦ってもろうてからあ、休ませてもろうたけれども今朝までまだ悪い。そんな訳でそのう御神前に出らして頂きましても、何にかいつものように神様がピタッとこう受けて下さらんという感じ。どんなに座っておっても座っておっても、神様は向こう向いて知らぁん顔しとんなさるといったような感じ。
 もう普通は三時半に出て四時にここへに神前に向かう時にゃ、もうそれこそ是はもうなんともかんとも言えん有り難さ一杯で、御神前に出らせて頂くのに、今日は御神前にぬかずかせて頂いて、長い長い御祈念をさせて頂いても、もう受け答えのないくらい寂しいことはない。問題は自分の心の中にですよね、自分の心の中に充実した喜びというか、有り難いなぁというその、この受け答えがないくらい寂しい事たぁないです。どうも今日は行きたくば神徳を積みて長生きをせよとおっしゃるが。
 こりゃひとつ本気で信心させてもろうて、本気で神徳本当の御神徳を頂いて、長生きのおかげを頂かねばばらんなと。なまじっか私共がこうしておかげを受けとりますとです、それこそ自分で自分の命を削るようなことを平気でしておる。手を出してはならないものにまで手を出している。今私が申しますように、もうそれこそ願うよりうえ飲んだり頂いたりしてから、そしてあぁこりゃ食べ過ぎたというて、一晩中苦しみというほどしではなかったけれども、もう胸がつかえてからどうも嫌なげっぷが出る。
 どうも胸焼けのような感じで今朝まで苦しんでおる。そういうことでとても命を長らえるといった、そして長生きをさせて下さいなんていったって、こりゃ問屋が卸さんと。食物は人の命のために天地の神が作り与え給うものぞとおっしゃるのにもかかわらず、命のためには頂かずに、命を害する命を削るような事のために、私は昨夜は飲んだり食べたりしておるということです。そして私がそこで思わした頂いた事を、久富さんにお話ししながらです、私共がこの自分の命を削るようなことをする事のために。
 神様が何んのおかげを下さろうかと思う。お金の無い人はお金のを願う、お金の本当にいやお繰り合わせを願う。億万長者にもなりたい願いを持っておるね。下さってもです、そのお金がその人をその家を却って不幸に落とし入れる様な事のために、なんの神様がおかげ下さる筈はなかですよね。というてから話した事です。いよいよこれはとても人間のこの我情我欲というものは、もう凄まじいのですからね、時に私はいやしん坊ですから、もうそのう食欲がまぁそう言う風で旺盛でありますしね。
 飲み物なんか自分でたまがるくらいなんです。御月次祭前あのうお祭仕える前に、あのう大きな瓶いっぱいの、氷水を飲んでしもうたんですよね。そした時に今申しますような、そのういわゆる暴飲暴食をしておるわけなんです。だから暴飲暴食をする為に、神様が沢山の例えば、本当の意味でのですね、そういうおかげを下さるはずはないて、はぁこりゃ神徳を頂かねば、とても出来んなということでございます。生きたくば神徳を積みて長生きをせよと。今朝の神様の方へただお詫びしてもお願いしても。
 神様はうんともすうとも言うて下さらんような感じで、そのまま時間が経ちますから立たせて頂いて、そして霊神様の前に出らして頂いてから、私はいつもそういうような場合は有り難いと思いますことはね、霊神様の前に出らせて頂いて、霊神様方のお徳にお縋りさせてもろうて、このお詫びを言うてもらうというか、もう本当に何と言うても父親に怒られてです、もう取り付く島もないごたるけれども、母親がそこをとりなしてくれるような、実感をいつの場合でも頂きます。
 今日霊神様の御挨拶をさせてもろうて、初めて神様との交流を感じたんです。有り難いですね。本当に神愛の中に私共があるということをですね、どんな場合でもです神様はそこにお詫びをして下さる方がある、また力をつけて下さる方がある。これは私の福岡でのいよいよの修行中の時分に、もうそれこそ這いも立ちも出来んくらいな修行の時代があったんですね。一晩中ちょうど私共が住もうておりました、一丁ばっかり離れた所がこう葦がこう繁って、もうぶすっぶすっと入って行くような所なんです。
 そこへ御百度参りの人が達が。もうそういう時にあのうへとへとになってですね、その時分に私はあのう御祈念中に、例えばこう蚊がこのうつきましてもね、蚊を追わないという修行させてもらう。それで大祓を五巻お供えさせてもろうて休ませて頂く。御百度踏んできては大祓を上げ、それでもうとにかくそのう大祓を一生懸命上げておりますけれどもね、蚊があんまり一杯にこう手にたかっておるもんですから、その痒いかつやら痛かつやらでね、大祓を間違うとですよ。
 大祓が間違うとまたそのうそこを御百度を踏んで、それも高袋の下駄の緒の切れたのを、さっち神様はそれを履いてあのう行けと仰る。それであぁたずぶずぶ入るごたる所のそれで入って行ってから、向こうで大祓を上げてからまたこっち帰って来てから、また御祈念をする。だから大祓が完全に上がればもう休んで良い訳ですけれども、とにかく完全に大祓一巻が上がらんとです。とうとうそんな事でもう一晩中夜の白々と明ける頃まで、そのう御祈念をしたり、大祓を上げたりさせて頂いて。
 もうへとへとになっておる時にですね、いわゆるなんと言うでしょうかね、まぁ私のまぁいうなら頭上にね声があって、正しく久留米の初代のお声なんですよ。「大坪さん修行中の時にはね、もうみんな同しとこを通りましたちゅって言わっしゃる。私も修行中の時にゃあんたと同じようなところを通りました。さぁ頑張りなさい。」という意味の事を頂きますとね、もう今迄それこそへとへとになっておったものが、また元気が出てからまた本気で修行させて頂こうというその。
 元気な心を頂かせて頂いておった時代がございましたがね。そういう時でも、本当に例えばそんなら、久留米の石橋先生が私に力ずけて下さらなかったら、もう修行が本当に途中で折れとったかも知れんと思うくらいです。移り変わり石橋先生、またいつも三井教会の初代桂先生というようにですね。あのう私の修行を見守っておって下さり、きつい時にゃ加勢して下さるように励まして下さったりして、おかげであの修行が出来たなと、今から考えれば凄まじい修行だったけれど。
 あれがようも出来たというのは、そういうね、神様からはもうそれこそ血も涙もないごたる、そのうまぁきつい修行を神様は求めなさられるたかと思うと、片一方ではさぁ頑張りなさいと言うて下さる、そのう方があったから出来たんだと私は思うんです。まぁ今朝なんかもやっぱし正しくそんな感じでございます。御霊様方に夕べから今朝にかけての、顛末を申し上げてからこんな訳で、神様はもう見向きもなさらんごたる状態ですから、どうぞお詫びして下さい。
 そこに私はそのうお取次ぎを頂かせて頂く者の幸せを感じます。神様がとり御霊様がとりなして下さる。そこにいよいよ神愛を感じさせてもらいます。今月の新聞が出来てきてまいっております。神愛欄を読ませて頂いたんですけれども。久保山陽子さんが今度書いておりますですね。少し読んでみましょう。「若くして両親を亡くした私、七年間に久保山の父、里の母達、祖母、妹、五人のお国替を頂きました。信心がなかったら、親先生がいて下さらなかったらと思いますと、ゾーッと致します。
 きっと今の私は無かった事でしょう。どんなに辛い時でも親先生のお言葉を杖につき、転び倒れしながらも喜びの道を歩いてまいりました。ひとつ、お取り次ぎを頂いて起こって来ることは全て神愛である。ひとつ、成り行きを大切に。ひとつ、人じゃない自分が大きく豊かに。ひとつ、今ですよ信心度胸をつけるのは。親先生のお言葉が耳にこびりつき、何か問題が起きるとその時は失敗してもすぐに平常の私になれる。いえそれによって何かを得ることが出来る。有り難いと思います。」
 これは中の一節ですけれどもね。ここなんかでも私は改めてほんなこて、七年間にあのう五人もの葬式をしておるということ。また改めて本当にそうじゃったなぁ。本当に私も思います信心がなかったら本当に。今の陽子さんは無かったじゃろうと思います、くらいなところを通らせて頂いておるですよね。それでいて今日このようなおかげを頂いておる。最後に書いておりますようにね、とにかく美しいということが日本一のなら山本富士子がなら、私は心の美しいということを日本一を目指して。
 あのう信心を進めたいといったような事が書いてある。そういうその願いといったようなものがどこから出て来るかと、辛いどんなに苦しい時であっても、さぁ今こそというようにです、その言葉を頂いてはその都度都度に、そこのところの難関を切り抜け切り抜けして、その都度都度に何か貴いものを身に付けてきたとこう言う訳です。いわゆる和が心で我が身を救い助けよ、その和が心で我が身を救い助ける。今朝なんかの場合どうにも出来ないけれども。
 お取り次ぎのおかげによって、霊神様のお取りなしによってです、ようやく私の心を我が心を救い助ける事が出来た。それにはどうでも私共がです、本気でひとつ神徳を受けさせて頂く信心させてもらいませんとです、本当の神徳を頂ときませんとです、頂いたもので却って怪我をするというようなおかげになるのです。御神徳を頂きますと、それが私はそういう頂いたおかげによって、却って災いを作ると言った様な、難儀を作ると言ったような事ないような、おかげを頂かれる事だろうとこう思うのです。
 だから生きたくばでもあり、又は本当におかげを頂くためにです、神徳を積んで長生きをさせてもらい、信徳を積んでいよいよ和賀心で我が身を救い助けさせて頂けれる、程しのおかげを受けなきゃならんと。いよいよ神徳をを積ませて頂くためにゃ、私お願いをしてお繰り合わせを頂いて、本当に信心頂いてるおかげでということはもちろん、皆んないうことですけれどもです。それを本当におかげを頂いて有り難いと分かることのためにはですね、やはり自分の願いが成就してないとか難儀な時にです。
 ここに陽子さんが言っておりますように、もしこういう時に信心を頂いてなかったら、親先生を頂いてなかったら、どうなっとったであろうかと思う様にです、一番苦しいとか悲しい時にです、信心頂いておるおかげというものを、真んからひとつ身につけたいと思いますね。そこんところの真からのおかげを頂きませんとですね、自分の思う様になってもです、おかげっちゃ言いよるけれども、真からのおかげと言うとらん証拠にですね、飲み過ぎたり食べ過ぎたりといった様な結果にすら成り兼ねないのですから。
 いよいよ苦しい時にようも信心させて頂いておったと、もし信心が無かったなら、親先生がおって下さらなかったなら、どうなっておったであろうかというようなです、苦しい時にそういう本当に、そういう体験を積んでおくことによってです、いよいよおかげを受けた暁には、それを本当におかげをおかげとして頂く事が出来るんです。そこんところが頂かずにおかげを受けたのはですね、おかげ頂いて有り難い信心頂いてとるけん有り難いと言うてもです、それを本当に有り難いという信心に現わしきらんです。
 唯おかげを頂いたと言うておるだけです。お参りも出来ん御用も出来んごとなってまいります。ここんところが分かっておると、そこんところの信心を基礎にしてですかね、苦しい時悲しい時、辛い時そういう時に、はぁ本当に信心が無かったら今の私に信心が無かったら、どういうことになるじゃろうかと、本当に信心頂いておるおかげでと、苦しい時にいよいよ信心の有り難さを分かって、私はおかげを頂きたいと思います。そういうおかげを頂いていくということ。
 そういう信心が私は神徳を積んで行く事だとこう思います。またそういう苦しい時に、信心を頂いておる有り難さが分かるというような、思い方とか生き方に神様は、いよいよ御神徳を下さろうとする働きが、また積み上げて行く事が出来ると言う風に思います。どうぞひとつ神徳を積んで長生きをさせてもらい、同時に和賀心で我が身をどのような場合でも、救い助けれる人間ですから、そりゃ神徳を頂いておってもですね、本当に神様が見向きもしなさらんような状態になるかも知れません。
 そういう時でもです私信心を頂いておるとです、そこにまた父親の厳しいしつけ又は母親の愛情によって蘇る。それこそどんなに踏み倒されても踏み倒されてもです、露の恵みでまた蘇る事の出来るような、そのうおかげを頂くためにです。御神徳を頂かせて頂く御信心を頂きたい。いわゆる我が心で我が身を、どのような場合でも救い助けてゆけれる、信心を頂きたいと言う風に思うのです。まぁ私の昨夜からbの失敗談を聞いてもろうて、いよいよ御神徳を積まなければ、いよいよ御神徳を頂いていかねば、本当のおかげは受けられんなということを痛感致しますですね。
   どうぞ。